犬の不思議を科学する⑤ マイクロキメリズムの謎~母子間で起こる細胞交換の意味

by 尾形聡子 2018.05.24

マイクロキメリズムの謎~母子間で起こる細胞交換の意味

『キメラ』という言葉を聞いて、みなさんは何を思い浮かべますか?個人的には某RPGゲームに出てくるキメラという鳥と蛇が合体したような姿をしているモンスターを真っ先に思い出してしまいます。


キメラとは、ギリシャ神話に登場するキマイラという、ライオンの頭にヤギの胴体、毒蛇の尻尾を合わせ持つ伝説の怪物に由来する言葉で、異なる個体から成るひとつの個体のことをいいます。生物学的には、異種・同種にかかわらず、別個体(胚)由来の細胞を合わせ持つ個体や、ひとつの個体の中に別個体由来の細胞が混じりあった状態そのもののことをさす言葉として使われています。


別々の個体が混ざっているような見た目をあらわすキメラと似ているものに、『モザイク』と呼ばれる状態があります。モザイクは体細胞の遺伝子が突然変異などによって部分的に変化して、異なる遺伝情報を持つ細胞が入り混じる状態のことをいいます。


簡単にいえば、キメラは別個体に由来する完全に異なる遺伝情報を合わせ持つ個体であり、モザイクはもともと一個体に由来する、部分的に遺伝情報が異なる細胞を持つ個体になります。


【参考リンク】
・キメラとは
・モザイクとは


キメラの犬

キメラやモザイクの状態をあらわす犬はこれまでにもわずかながら報告がありますが、2012年にはブラックとイエローが入り混じった毛色のラブラドール・レトリーバーの子犬についての研究報告がされています。


母親はブラック、父親は薄まったブラック(一般的にブルーと呼ばれる毛色ですがラブでは公認されている毛色ではなく、シルバーと呼ばれているようです)から10頭の子犬が生まれ、9頭はブラックやイエローなどの単色の被毛、1頭がブラックとイエローの毛色が入り混じった個体でした。


研究者らはその犬の毛色遺伝子2種類と性染色体について、口腔内細胞、ブラックの毛とイエローの毛それぞれから抽出したDNAを解析しました。その結果、その個体はモザイクではなくブラックのメスとイエローのメスの受精卵が融合して誕生したと考えられるキメラであることが示されました。


同種での完全なるキメラ個体は、2つの受精卵が融合して誕生することが知られていますが、実際に誕生するのは極めて稀なことです。これまでに、ネコ、マウス、ヤギ、ミンク、ウマ、そして人での報告がありますが、一般的に、一度の出産で一個体しか生まない単胎動物では、とりわけ稀であると考えられています。


しかし、犬のように多胎妊娠する生物種ならばその可能性は多少高まるかもしれません。たとえばラブでいえば、イエローとイエローの毛色同士で同性の受精卵が融合する場合や、毛色のバリエーションがほとんどないような犬種では、見た目から気づくのに非常に困難であるため、潜在的にキメラ個体がいる可能性がないとはいえないからです。


人において自然発症するキメラのほとんどは、受精卵が融合する完全なキメラではなく、「血液キメラ」と呼ばれるものです。多胎妊娠した母胎にいるあいだに、ある胎児から別の胎児へと血液を作り出す幹細胞が移動し、遺伝的に由来が異なる血液幹細胞がそれぞれ血液を作りだすような個体が誕生するという仕組みです。


ただし一卵性の多胎妊娠の場合は、すべての胎児は同じ遺伝子を持っているので、たとえ血液幹細胞が別個体に移動したとしても血液キメラにはなりません。したがって、血液キメラは二卵性またはそれ以上の多胎妊娠の場合に起こります。


受精卵の融合や血液キメラのように自然発生するケース以外では、輸血や臓器移植、白血病などにおける造血幹細胞移植などにより、別個体由来の細胞を合わせもつことがあります。そのような場合に見られる、他者の細胞が自己の体内にほんの少しだけ存在している状態のことを『マイクロキメリズム』といいます。


さらに、マイクロキメリズムで興味深いことには、臓器移植などによるものではなく、母子間でも細胞の交換が見られるという点です。


【参考リンク】
マイクロキメリズムとは


母子間に見られるマイクロキメリズム

母子間で見られるマイクロキメリズムは、妊娠中の女性の細胞が胎児に移動することで、子の体内に母親の細胞が存在する場合(母系マイクロキメリズム)と、胎児の細胞が母体へと移動し、母親の体内に子の細胞が存在する場合(胎児マイクロキメリズム)とがあります。


人において、母子間で交換されている細胞が、それぞれに様々な臓器や組織から検出されています。そしてこのたび、出産経験のあるメス犬にも、子の細胞が体内に存在している胎児マイクロキメリズムの現象が起きていることが初めて明らかにされました。胎児マイクロキメリズムは、これまでに、ヒト、マウス、ラット、ウシで起きていることが確認されています。


遺伝情報が書き込まれている染色体の本数は動物種によって異なりますが、性染色体については、オスならばXYという組み合わせ、メスはXXという組み合わせを持ちます。もし、胎児マイクロキメリズムが起きていれば、本来ならオスしか持たないY染色体がメスの体から検出されることになるという点に研究者らは着目しました。そこで、出産後数ヶ月からおよそ8年たった、少なくとも1頭のオス犬の出産経験のある90頭のメスのゴールデン・レトリーバーを対象に、血液サンプルを解析しました。


90頭中38頭の犬からY染色体が検出されましたが、38頭のうち9頭の血液サンプルは出産前に提供されたものだったことがのちに分かりました。9頭にはすべて同腹にオスの兄弟がおり、検出されたY染色体は母胎にいる間に兄弟姉妹同士で細胞の交換がなされた結果起きたマイクロキメリズム(血液キメラ)のためであり、胎児マイクロキメリズムの裏付けにはならないということで、除外されました。


結果、これらの9頭を除いた81頭中、29頭(36%)で胎児マイクロキメリズムが起きていたということが示されました。産後8年ともっとも年月がたっている犬の血液サンプルからもY染色体が検出されたことは、それだけの長期間、子犬の、すなわち、別個体由来の細胞が母犬の体内で生きていたということになります。


マイクロキメリズムと病気

通常、生体は身体に侵入してくる他者の細胞に対して免疫系が反応し、それを排除しようとする仕組みが働きます。たとえ肉親であっても他者からの臓器移植が難しいのはそのためです。しかしその一方で、この母子間のマイクロキメリズムのように、他者の細胞と共存している状態が自然に起きています。


非自己の細胞を排除しないマイクロキメリズムでは、特異的な免疫システムが存在しているためだろうと想定されています。免疫システムとのかかわりから、マイクロキメリズムは自己免疫疾患との関連性があると考えられ、これまでの研究により、マイクロキメリズムは自己免疫疾患の予防にも原因にもなりうることが示されています。


また、自己免疫疾患は男性よりも女性に多く見られることからも、マイクロキメリズムが性差を作り出している原因のひとつかもしれないともいわれています。


そのほか、マイクロキメリズムは乳がんの発症率を下げるというがんとの関連性や、マイクロキメリズムとアルツハイマーとの関連性も報告されています。


その報告によれば、神経性疾患をもたない女性26人と、アルツハイマーを発症していた女性33人、計59人を死後解剖した結果、半数以上の脳内から男性の細胞が見つかりましたが、マイクロキメリズムが起きている女性の方がアルツハイマーの発症率が低いことが示されたそうです。しかし、調査した人数が59人と少ないため、マイクロキメリズムとアルツハイマー発症との関連性が本当にあるのかどうかを見極めるにはさらなる研究が必要だとされています。


単胎妊娠が主流の人と多胎妊娠の犬とでは、妊娠中につくられる臓器、胎盤の種類も異なります。ですが、妊娠中に起こるマイクロキメリズムの現象は、さまざまな哺乳類に広く見られることが明らかにされはじめています。


しかも、犬は自己免疫疾患やガン、認知症など、人と同じような病気を自然発症し、人と生活環境を共にする動物でもあります。母子間のマイクロキメリズムに関する研究はまだ始まったばかりといってもいいかもしれませんが、犬でのマイクロキメリズムが確認されたことからも、これまでとは異なる糸口から病気の解明へと繋げられていくことが期待されています。


【参考文献】
・A case of canine chimerism diagnosed using coat color tests.Mol Cell Probes. 2012 Dec;26(6):253-5.
・Y-chromosome DNA Is Present in the Blood of Female Dogs Suggesting the Presence of Fetal Microchimerism.PLoS One. 2013; 8(7): e68114.


【この連載について】

いつも私たちの身近にいてくれる犬たち。でも、身体のしくみや習性、心のことなどなど、意外と知らないことは多くあるものです。この連載から、“科学の目”を通して犬世界を一段深く見るための、さまざまな視点に気づくことができるでしょう。


【尾形聡子 プロフィール】

ドッグライター。生まれ育った東京の下町でスパニッシュ・ウォーター・ドッグのタロウとハナと暮らしている。ブログ『犬曰く』雑誌『テラカニーナ』にて執筆中。著書に『よくわかる犬の遺伝学』。

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