犬の不思議を科学する⑬犬の健全性とスタンダードのジレンマ(1) – 犬となったことで背負った遺伝的弊害

by 尾形聡子 2019.11.11

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家畜化に伴い、犬という生物には遺伝的に有害なDNAの突然変異が急速に広まった可能性がある…犬が犬となった瞬間から病気を抱えがちになることが運命づけられてしまったともいえる、衝撃的な研究論文を目にしました。だとするならば、犬の遺伝病発症は私たちがどんなに努力をしようとも、避けられないことなのでしょうか。近年の研究を紹介しつつ、犬の遺伝的多様性の重要性について考えていきたいと思います。

遺伝的多様性とは?

私たち人間も、犬も、そしてさまざまな動植物も、ありとあらゆる生物の体はDNAによって設計されています。細胞一つ一つの中に両親から受け継いだDNAセットがあり、基本的には個体の体細胞の中にあるDNAはすべて同じものです。生物種が異なればDNAにはそれなりの違いが見られるのですが、同じ種でもDNAには個体差があります。また、見た目がどんなに似ていても、厳密にはクローン動物を除いて生物それぞれが持つDNAはひとつとして同じものはありません。


似ているようでも全く同じものはないDNAですが、それぞれの種を保っていくためにはある程度の遺伝的な均一性、すなわちDNAの類似性が必要とされます。その種に特有の遺伝子変異が集団内に固定されない限りは、種として存続できないからです。しかしその一方で、種の健全性を保っていくためには遺伝的な多様性、個体それぞれの遺伝的な違いが多くみられることが大切になってきます。


遺伝的多様性が高いという状態とは、種全体として見るとさまざまなタイプの遺伝子がストックされていることをいいます。たとえば免疫力に関係するような遺伝子があったとして、その遺伝子のタイプが10種類ストックされている種と10,000種類ストックされている種があるとします。そこに何らかの疫病が流行った場合、10種類しかない種より10,000種類ある種のほうが、その疫病に抵抗できるタイプの遺伝子を持っている個体のいる可能性が100倍あると単純に考えられます。つまり、環境の変化などに適応して生き延びていくためには、遺伝的多様性が高いことが種として有利になるわけです。


ではこのことについて、犬の場合はどのようになっているのか見ていきましょう。

犬の2回の大きな進化と遺伝的多様性

犬は、およそ15,000年以上昔にオオカミから犬として家畜化されたときと、現代の犬種が作られ始めた200年ほど前に、DNAレベルで大きな進化を遂げています。この2回の劇的ともいえる進化の際に、犬は遺伝的ボトルネックを経験しています。


遺伝的ボトルネックとは、進化に伴い遺伝的多様性を急速に大きく失うことをいいます。遺伝的多様性を失うこと、すなわち、同じDNAを持つ個体の割合が高くなることで一定の方向へと進化が進んでいきます。一時的には集団内の個体数が減少するものの、そののちに種としての形質が固定されていくことになります。集団が小さくなることには、有害なDNAの突然変異を取り除いていくための自然淘汰がされにくくなる、という側面もあります。


犬が最初に経験した遺伝的ボトルネックでは、人為選択とインブリーディング(近親交配)による選択圧がかかり、現在の犬の祖先が誕生することになりました。そこでは、オオカミから犬に進化することが生存に有利となるような DNAの突然変異が犬のもととなる集団内に急速に広まり固定されるという、選択的スウィープ(selective sweep)が起きたと考えられています。


犬が大きく遺伝的多様性を失うことになった二つ目の遺伝的ボトルネックは、犬が品種化されはじめた200年ほど前のことです。犬が家畜化されてから、犬はそれぞれの土地でそれぞれの作業能力を求められて進化してきました。しかし、イギリスでケネルクラブが設立され犬種のスタンダードが作られたことによって、犬の特性や外見による人為選択、さらにはインブリーディングがそこかしこで行われるようになり、再び急速に多様性を失っていくことになりました。


犬種という限られた集団のなかでの繁殖、とりわけインブリーディングでは、「DNAが似通っている」個体ばかりを作り出す状況を生み続けることになります。また、突然変異により好ましい特徴を作り出すようになった遺伝子と、逆に、有害となる恐れのある遺伝子のDNA上での位置が近かったり、遺伝子が持つ働きに関連性があったりすると、好ましい特徴を選んでいたつもりが、同時に好ましからざる遺伝子も選んでしまっていたという結果になりやすいという、選択的スウィープに伴う問題も生じてきます。そうして現在、犬の身体的な特徴が原因となる健康問題や、遺伝性疾患の蔓延が問題視されるようになっているのです。

家畜化されたことによる、遺伝子の変化と遺伝的多様性の消失の大きさ

進化に伴い起こる遺伝子変異には、利益・不利益の両方がもたらされると考えられますが、実際にどの程度の不利益がDNA上にあったかについてはこれまでに調べられたことはなく、2回あったボトルネックのどちらが犬にとってより悪い影響を及ぼしてきたのかは議論がなされていたところでした。それらを明らかにするために、アメリカとスペインの研究チームは19頭のハイイロオオカミ、異なる10か国で暮らす半野生の犬(1回目のボトルネックのみ経験)25頭、34犬種46頭の犬のゲノム(2回のボトルネックを経験)を比較し、ゲノムの違いを解析しました。


その結果、犬種が作り出されるのに伴って起きたボトルネックのときよりも、むしろ家畜化されたときのほうが、多くの有害な遺伝的変異が広まった可能性が高いことが示されました。犬とオオカミを比較すると、犬には自然界で有害だと考えられているDNAの変異が全体の2.6%、115の対立遺伝子(自然界にある遺伝子が変異したタイプ)として存在していたのです。


有害な変異の起きている遺伝子領域は、野生動物ならば自然に淘汰される、もしくは自然に減少していくものです。しかし積極的に人為選択による繁殖が行われるようになった2回目のボトルネック以降、有害な対立遺伝子は自然淘汰されることなく両親から受け継がれる状態に陥りました。そのために、病気に関連する遺伝子へと濃縮されていったことがわかりました。

犬の背負った運命を、人はどうしていくべきか?

進化をとげるにはDNAの突然変異が起こり、それが種内に広まるというイベントが不可欠です。進化は環境への適応と種の存続のためにプラスに働く面があると考えられますが、逆に有害な遺伝子が広まる可能性がある場合もあります。進化の過程で起こったDNAの突然変異すべてが必ずしもいいものであるとは限らないからです。自然界では淘汰されていく有害なDNAを、多様性の消失とともに犬の中に固定してしまったのは私たち人間であるともいえます。


進化が犬たちにもたらしたものは、犬たちにとって利益だったのでしょうか?それとも不利益だったのでしょうか?たとえばそれは、期間の長さを50年で考えるか500年で考えるかによっても、人が犬という生物をどうあるべきと考えるかによっても異なってくるでしょうし、そもそも正解などないのかもしれません。しかし、少なくとも15,000年前からずっと私たちと生活をし、ゆっくりと共に進化してきた犬たちです。むこう15,000年という年月をかけてでも、今明らかになっている犬たちにとって不利益なDNA変異を減らしていき、ゆくゆくは有益なDNA変異を蓄積させていくぐらいの気持ちで、私たちが今持てる力を尽くしていくべきではないかと思うのです


※本記事はブログメディア「dog actually」に2016年1月26日に初出したものを、一部修正して公開しています。


【参考文献】

・Bottlenecks and selective sweeps during domestication have increased deleterious genetic variation in dogs. Proc Natl Acad Sci U S A. 2016 Jan 5;113(1):152-7.

【この連載について】

いつも私たちの身近にいてくれる犬たち。でも、身体のしくみや習性、心のことなどなど、意外と知らないことは多くあるものです。この連載から、“科学の目”を通して犬世界を一段深く見るための、さまざまな視点に気づくことができるでしょう。


【尾形聡子 プロフィール】

ドッグライター。生まれ育った東京の下町でスパニッシュ・ウォーター・ドッグのタロウとハナと暮らしている。ブログ『犬曰く』雑誌『テラカニーナ』にて執筆中。著書に『よくわかる犬の遺伝学』。

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