by 尾形聡子 2019.10.16
「虚脱」という言葉、普段の生活においてはあまり聞きなれないかもしれません。人の場合は一般的に、血液循環が妨げられることで全身症状を起こすことをいい、「肺虚脱(気胸)」や「熱虚脱(熱中症)」がそれにあたります。
犬の場合には「気管虚脱」といって、気管がゆがんだり押しつぶされた状態になったり、弾力性を失ってしまうことで呼吸障害を起こす、短頭種や小型犬が発症しやすい病気をご存知の方もいることでしょう。
犬ではそのほかにも、激しい運動に誘発され、後肢の筋力が突然弱まりふらつき始め、足取りの調和がとれなくなってへたり込んでしまうことを主症状とする「運動誘発性虚脱(Exercise induced collapse:EIC)」、さらにそれに類似する症状を呈する「ボーダー・コリー虚脱(Border Collie Collapse:BCC)」と呼ばれる病気があります。
いずれも強度の運動を数分から数十分間続けて行うと、ふらつきなどの虚脱症状が出始め、体温が上がり、体のバランスを保てなくなり、座り込んだり倒れこんだりしてしまいます。意識障害はなく、通常はその後数十分で回復し、痛みなどが残ることはないそうです。
運動誘発性虚脱(EIC)とは
2008年、アメリカのミネソタ大学の研究により、最初にラブラドール・レトリーバーで運動誘発性虚脱の原因遺伝子が明らかにされました。9番染色体上にあるdynamin 1 gene(DNM1)遺伝子の点変異が原因となる、中枢神経系の遺伝性疾患で、常染色体劣性遺伝をすることがわかりました。
DNM1遺伝子は神経伝達の際、シナプス小胞の再取り込み(エンドサイトーシス)に不可欠なたんぱく質です。なので、その遺伝子が正常に働けなくなると神経伝達経路が遮断されてしまい、筋肉の虚脱を引き起こすと考えられています。
【参考リンク】
さらなる研究により、ラブラドールでのEICのキャリア(※1)は30~40%、3~13%がアフェクテッド(※2)と見積もられ、アフェクテッドの8割以上の犬が4歳までに虚脱症状を見せていたことが示されました。残りの犬については、虚脱するほど激しい運動をしていなかったため、虚脱症状を見せずにいたのだろうと考えられています。
(※1)キャリア:片親から変異型、もう片親から正常型の遺伝子を受け継いでいる場合
(※2)アフェクテッド:両親から変異型の遺伝子を受け継いでいる場合
【参考リンク】
またほかのレトリーバー犬種でもDNM1遺伝子の変異を持っているか調べたところ、チェサピーク・ベイ・レトリーバーとカーリーコーテッド・レトリーバーに見られましたが、ゴールデン・レトリーバー、ノヴァ・スコシア・ダック・トーリング・レトリーバー、フラット・コーテッド・レトリーバーにはありませんでした。
他犬種では、ボイキン・スパニエル、クランバー・スパニエル、アメリカン・コッカー・スパニエル、ジャーマン・ワイヤーヘアード・ポインター、ビズラ、オールド・イングリッシュ・シープドッグ、ブービエ・デ・フランドル、ウェルシュ・コーギー・ペンブロークにおいてDNM1遺伝子の変異が確認されています。
日本でもラブラドールについての調査が行われていて、2012年に発表された論文によると、133頭中6頭(4.5%)がアフェクテッド、50頭(37.6%)がキャリアと報告されています。また、盲導犬のラブラドールに絞って調査している報告もあり、174頭の盲導犬において、アフェクテッドが13頭(7.45%)、キャリアが58頭(33.3%)という結果が出ています。
【参考リンク】
https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-24925027/249250272012jisseki/
アメリカ・ミネソタ大学のEICに関するサイトにもラブラドールの30~40%がキャリア、3~13%がアフェクテッドと書かれています。国や地域による差はあるでしょうが、かなりの割合でDNM1遺伝子の変異がラブラドールに浸透していることが示されています。
【参考リンク】
・College of Veterinary Medicine, University of Minnesota運動誘発性虚脱(Exercise induced collapse:EIC)
ただし、EICアフェクテッドの犬でも、虚脱の誘発原因となる強度の運動などを避けることで、家庭犬として普通に生活を送ることができます。重度の場合にはごくまれに命を落とすこともあるようですが、水中などで虚脱を起こしたりしない限り、基本的には致死性の病気ではありません。また、多くの場合は年齢とともに活動や興奮レベルが下がっていくため、症状を起こさなくなっていく傾向が見られるそうです。
いずれにせよ、生活の中で激しい運動を行う可能性が高いラブラドールや、DNM1遺伝子変異が確認されている犬と暮らしている人は、若齢のうちにDNA検査を受けておくことが大切です。そうすれば、たとえアフェクテッドであっても、虚脱症状を出さないように、運動の程度、興奮や過度のストレスなど、誘発要因となることに対して配慮する心構えができます。さらに、症状は異なるものの、熱中症やてんかん、筋疾患など、間違えやすい別の病気の症状と区別することもできるようになります。
ボーダー・コリー虚脱(BCC)とは
ボーダー・コリーなどの、主に牧羊犬においても同様に、激しい運動、気温、興奮などが引き金となり虚脱症状を起こす場合があります。EICの原因となるDNM1遺伝子の変異を持っていないため、それとは区別して「ボーダー・コリー虚脱(BCC)」と呼ばれています。
一般的に、BCCは実際に作業をしている犬やアジリティ、フライボール競技などに参加している犬に見られることが多く、北アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアで報告されています。そして日本においても、BCCらしき症状をあらわす個体がいると聞きます。
このような状況を受け、EICの原因遺伝子を同定したアメリカのミネソタ大学、そしてカリフォルニア大学サンディエゴ校、カナダのサスカチュワン大学では、ボーダー・コリー虚脱の解明に向けて、DNA解析やアンケート、ビデオ映像などによる大規模調査を続けています。
研究チームは、2016年にBCCに関する論文を2報発表しており、そのうちひとつは飼い主へのアンケート、獣医師の診断、ビデオ映像を解析したものです。
研究対象となったボーダー・コリーの発症年齢の中央値は「2歳」、虚脱症状を起こした回数は「2回」から「100回以上」にまでわたっていました(中央値は「6回」)。虚脱を起こす状況としては、「レトリービング(※1)の最中」がもっとも多く(68%)、次いで「ハーディング(※2)をしている最中」(24%)でした。
もう一方の研究では、BCCを発症しているボーダー・コリー13頭と健康なボーダー・コリー16頭にボールのレトリービングとハーディングを行わせ、生理的な違いが体内に生じているかどうかが調査されました。
その結果、BCCのボーダー12頭に異常歩行などの症状が見られたものの、健康な犬とBCCの犬の間に直腸温度、脈拍数などの生理的な部分での有意差は見られませんでした。また、遺伝子診断ではEICの原因となるDNM1遺伝子の変異も見られず、何かしらの遺伝的な背景が強く疑われるものの、BCCの遺伝要因は特定されなかったと研究者らは結んでいます。
(※1)レトリービング:物を投げて、取ってくるように指示をする行為
(※2)ハーディング:散らばっている羊の群れを、小屋の中などに誘導すること
【参考リンク】
また、カナダのサスカチュワン大学のサイトを見てみると、2019年10月現在でボーダー・コリー虚脱の疑いがある犬種として、オーストラリアン・キャトル・ドッグ、オーストラリアン・ケルピー、オーストラリアン・シェパード、シェットランド・シープドッグ、ビアデッド・コリー、そしてコリーが挙げられています。
【参考リンク】
https://vmc.usask.ca/services/medicine-bcc.php#Video
このように、BCCについての研究はまだ始まったばかりといえる状況で、今後の研究が待たれるところですが、発症に関与する何らかの遺伝的基盤があるだろうと推測されています。
ですので、ボーダー・コリーや上記に該当する犬種と暮らしている方で、同胎犬や両親犬などに虚脱症状が見られたと聞いたことがある場合には、激しい運動には配慮した方がいいかもしれません。EICと同様に、熱中症やてんかんなど他の病気と間違えることもあるかもしれませんので、その点に関しても留意されておくといいのではないかと思います。
【参考リンク】
ボーダー・コリー虚脱(Border Collie Collapse:BCC)