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どうぶつ用災害診療車の車窓から

予防啓発

どうぶつ用災害診療車の車窓から

アニコム ホールディングスでは、2016年4月の熊本大震災において、2回にわたってのべ8名の獣医師を派遣した。先発隊は震災直後に物資の運搬を、後発隊は熊本県・福岡県の獣医師会と協働し、現地の獣医療支援活動を実施した。本稿は、災害地で支援活動を行った獣医師の生の体験を記すものである。災害時対応マニュアルではなく、獣医療に携わる企業として、また獣医師として、どのようなことを感じ、どのような支援ができうるのか、1つの参考となれば幸いである。
(アニコム ホールディングス 獣医師 小川篤志)


異世界とも言える地

昨日に戻ることはできない。なぜなら、昨日の私とはもう違うのだから――。
新宿副都心の景色を眺めながら、私は「不思議の国のアリス」の一節を思い出していた。事実、私にとって被災地はアリスの世界だった。規制された高速道路の反対車線を逆走する感覚は、さながらゆっくりと穴に落ちる白うさぎだろうか。自分が小さくなったとさえ錯覚させる巨大な自衛隊の車輌。道路はベッドシーツのように波打ち、家屋は崩れそうで崩れずバランスする。顔まで泥がついた幼い兄弟がいた。さまざまな炊き出しの混ざる香り。不自然に大きな話し声。雨。ぬかるみ。あのとき熊本は、異世界だった。


2016/4/14

あの日、熊本を大地震が襲った。アニコムでは速やかな支援を決定し、先発隊として手をあげた4名が物資支援に現地へと急いだ。実は、アニコムは東日本大震災の際に災害支援の経験があった。すべてが津波によって流された彼の地での獣医療支援が困難を極めた経験から、震災直後に活躍するための「どうぶつ用災害診療車」を導入していた。大型キャンピングカーを改造したこの診療車には、待合室、診察室、血液検査機器のほか、長期の滞在にも対応できるようシャワールームやトイレ、キッチンが装備されている。
震災から10日ほど経った頃、熊本県獣医師会から正式に派遣要請を受けた私たちは、この診療車とともに現地へ向かい、VMAT(災害派遣獣医療チーム)を擁する福岡県獣医師会と協働して獣医療支援を行うこととなった。


避難所をまわって

私を含めて3名の獣医師を乗せた診療車は、ほぼ1日をかけて被災地に到着した。異世界とさえ形容できるほど既視感のない光景だった。そこで私たちは、毎日さまざまな避難所を巡回した。各避難所では診療車の到着がアナウンスされ、診療が必要な犬、猫が連れてこられる。地震からしばらく経過したからだろうか、幸いにも元気消失や食欲不振などの軽微な症状が多く、重症の犬や猫と出会うことはなかった。しかし、同時にその事実は「この地に必要とされているのか」という疑問をも私たちに突きつけた。


不安のカプセル

誰しも、大なり小なりさまざまな不安を抱えながら日常を生きている。そうした不安のメタファーが1つのカプセルだとすれば、震災が起きたとき、不安カプセルは雪崩のように私たちを襲うだろう。私たち支援者が被災者の方々にできることは、そうした不安カプセルを取り除くことだった。決して安心をつくることはなく、マイナスをゼロに近づけるための作業である。そして、企業や団体にはそれぞれ得意とするカプセルがあり、皆で分業する。「食べられなかったらどうしよう」という不安は、飲食企業が炊き出しを行って取り除いていた。私たちがみたのは「ペットが病気になったらどうしよう」というカプセルだった。あの疑問の解になるのか確かではないが、私たち獣医師はかならずしも病気を治療したかどうかだけでなく、「そこに獣医師がいる」という存在そのものが価値を持つことで、そのカプセルを除去していたのかもしれない。むろん、このこと自体は喜びを生むものでもなく、厭われるものでもない。しかし、そうした存在は確かに必要であったのだと自分たちに言い聞かせた。


日常に戻って

新宿に帰ってしばらく経っても、私はあの世界から抜け出せずにいた。何不自由ない日常の生活を送ることに、罪悪感を抱いたこともある。実際、支援者側がある種のメランコリアに陥るのは珍しいことではないらしい。私の場合は、結局その気持ちに折り合いがつくほどの決定的な文脈はなく、ただ時間だけが解決したのだと、いまになって思う。 だが、それでも災害が起きる前の自分に戻ることはない。無慈悲な災害がもたらすあの光景や匂いを、確かに感じた。そこでできることは決して多くない。しかし、次の災害は確実に起きるのだ。せめて企業として、獣医師として、人として、その日のためにどのように向き合っていくか、そこに赴いた者の責任として考え続ける義務があると感じる。

※本稿は、アニコム 家庭どうぶつ白書 2016「どうぶつにやさしい災害への備え」より転載しました。

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